いかにして哲学を行うか: 土屋賢二「もしもソクラテスに口説かれたら」

俺: >>桶山さん
桶山: なんですか >>俺さん
俺: タマシイって、存在すると思いますか
桶山: 存在するよ
俺: そうなんですか(驚)。俺はそんなもの存在しないと思います。だって、目に見えないし、どんなものかも分からないのに、どうやって存在することを証明するんですか
桶山: 確かに目には見えないし、どんなものかと一言で言うのは難しいけど、実際に存在しているんだよ(怒)。だって俺、そこに住んでるし(事実)
俺: 住んでるって…
桶山: 多摩市(タマシ)
俺: …

本書の内容

本書は、プラトン「アルキビアデス」中のソクラテスの対話篇を元に、著者と大学の学生が議論する、という形での哲学実践書である。「哲学的にものを考える」とはどういうことか、をよく伝えていて、とても面白い。哲学に興味のあるひとへの最初の一冊や、中学高校の課題図書なんかにぴったりではないか、と思う。

本書がどんな議論を行っているのか、以下に少しまとめてみよう。

ソクラテス口説き方、その問題点

本書では、「哲学の問題は、ことばの問題である」という考えの下に、議論が繰り広げられる。まず、「アルキビアデス」における、ソクラテスによる美少年アルキビアデスへの口説き文句が紹介される。それは、概略次のようなものである。

  1. 人間が道具を使う場合を考えればわかるように、使われるもの(道具)と使うもの(人間)とは別々のものである。
  2. 人間は身体を使う。よって人間と身体は別々のものである。
  3. 身体を使うのは魂であるともいえる。
  4. 人間も魂も「身体を使う」ものであるから、両者は同じものである。
  5. ゆえに、人を愛するものは、その人の身体でなく魂(=人間)を愛するはずである。
  6. ほかの男はあなたの身体を愛しているが、私だけはあなたの魂を愛している。
  7. だから、あなた自身を愛しているのは私だけだ。

この主張の正当性をめぐって、著者と大学の学生が議論を行うのが、本書のメインである。

ソクラテスの主張の怪しい部分

「人間が道具を使う場合を考えればわかるように、使われるもの(道具)と使うもの(人間)とは別々のものである」とソクラテスは言うが、「AがBを使う」とひとことに言っても、AとBの関係はさまざまで、いきなり「AとBは別物である」と結論はできない。こういったことばの使いかたの粗雑さの指摘を、いくつかすることができる。が、もっと一般的に、この議論がはらんでいる問題をいうとどうなるのか。

ソクラテスは、われわれの日常のことばを使って、事実がどうであるか(ここでは「人間と魂は同じものである」かどうか)の議論をおこなっている。しかし、日常のことばの使いかたは偶然的に決まってきたもので、それを基にして事実がどうなっているかを推理することはできない(もしそれができるなら、「アルキビアデスは60kgの重さがある」「魂に重さはない」から「アルキビアデスは魂ではない」ともいえることになる)。文は事実を表すために使われるが、それが正しく事実を表しているかは、文ではなく事実を調べなければならないのである。

哲学的議論とはどのようなものか

哲学の議論を行う際は、まず、(「机」「魂」「同じ」といった)議論に用いている日常のことばが「何を意味するか」をあきらかにしなければならないわけだ。しかし、ことばの意味を明らかにしたあとで、どういう事実を調べたら問題が解決できるのかは明らかではない(「人間は心と同じか」という問題は事実を発見すれば解決できる問題か? )。つまり、哲学の問題は、事実の観察や実験で解決できる自然科学の問題とは異なった特徴を持っているのである。